ぬらっ。コレクターぬらっ。モルモット

2018年06月14日

ぬらっ。家族の肖像3

ぬらっ



"910228②家族の肖像 /世にも奇妙な物語" https://t.co/azGS5ojKud
「家族の肖像」見た。自動車事故で両親を失った子供が主人公。かつて住んでいた家に戻ると、亡くなったはずの両親に会える。だがその家は他人の手に渡ることになる。

子供がかわいそうで、同情する。これっきり両親はもう現れないような気がする。でも強く生きてほしいな。

「極楽鳥花」「運命の赤い糸」「私じゃない」は動画みつからず。「極楽鳥花」は裕木奈江が出てたんだよ。当時好きだった。










最近頭痛に苦しんでいる。

短歌に関してはほとんどなにもしてないかも。








意識が高いほうがいいとは思わないなあ

メモ。上の世代は人との距離がちかい。地域差もある。
ツイッターの使い方もちがう。
ふぁぼしたらリプライされるという歌があったな。
奥村さんがふぁぼした人に名前を呼んでお礼のツイートすること。


ハラスメントも距離感のちがいがからんでいる場合がある。

若い人の距離感のほうが正しいという前提になりやすい。

オレも上の世代の人になれなれしくされて嫌だったことがある。無視したら去ってくれたけど。
あれはああいうもんだ。
同じくらいの年齢層でやってるのが一番無難だわな。

そこを相手に合わせてコントロールできると、柔軟性がある、スマートだということになる。

最近、小学生や中学生がすれちがうときに挨拶してくる。
そういうふうに教育してるからそうなるわけだが、人との距離感を近づけてるわけだ。ふつうは知らない人に話しかけたりしないからね。犯罪の防止につながったりすんのかな。近いことのメリットもある。

距離感の近いことのメリットというと、ものを通して助け合ったりできること。震災のときに水をもらったりしたのはありがたい記憶。

物のやりとりといえば、それまで関わりのなかった歌人にとつぜん本を送るような距離感もある。

通信の速度と関係あったりするのか。ラインでつながる人達、メールや携帯電話でつながる人、ポケベル、固定電話や公衆電話。
通信が速く手軽になるとともに人との距離感はひらいていくのかと、仕事しながら考えていた。

ドリフのちょっと古いコントで、おくさんが近所のおくさんから醤油を借りる習慣を題材にしたものがあった。
古いひとのほうが近所付き合いがある。新しいひとは近所付き合いはしないがネットで遠くのひととやりとりする。

醤油を借りるって書いたけど、物のなかった時代だから助け合う必要があって、助け合うために距離を短くとっていたのではないか。

もう物を貸し借りする必要もなくなっているのに、それでも距離感の近さが変わってない人達がいると。それで若い人に「近い!」といやがられていると。

昔から電話くらいはあった。……といったって、一家にひとつしかないし、かかってきても出てみなきゃ相手が誰かはわからないわけだよ。いちいち穴に指を入れてジャーコラジャーコラやらないと発信できないし、留守電もなかった。

物の貸し借り以外に、情報の共有なんかもあったでしょうね。ちょっとググるってことができないわけで、人にきくのが一番早い。だからすぐ話しかける。

電話ですぐつながるといっても、むかしは世帯と世帯、建物と建物とがつながるのであって、一人と一人が直接つながるわけじゃないんだね。○○くんいますか、といって第三者にたのんでつなげてもらうことになる。だから相手の家族とつながりができる。

そうやって他人を巻き込み巻き込みしながら生きてきた時代がある。

テレビだってひとつしかないからみんなで見た。人と人がくっついていたんだよ。

人と人がくっついてた時代の人が、はなれてる現代の人と接したら、合わなくなりやすいと。近くて困る、土足で踏み込まれて困るということになりやすい。

喜多さんのインタビューのことからここまで考えた。

今言ったような原因がもしあるにしても、それでもやはり、相手が嫌だなと思ったらダメだ。そこは早めに察して修正しなくてはいけない。世代が違うということは距離がちがう可能性があるのだから、注意していなくては近くなりすぎてしまう。

年のほかに性別もちがうわけだからね。感じ方を自分基準で考えてはいけない。

思想とかなんとかイズムとか現代の潮流だとかいうのは知らないよ。そんなの持ち出すまでもないことに思える。
相手を思おう、迷惑なことはやめよう。そういう当たり前のことをまずやんなきゃ。むずかしいことはその後だとおもう。

どうも喜多さんが叩かれすぎてるような気がして、おっさん側に立って考えてみようとしたが、平凡な結論になった。

オレ自身は差別ともセクハラとも思わなかったけど、言われればそうかもしれないと思う。第一、受けた人がそう感じたならそうなんだよな。

差別ともセクハラとも思わなかったならなんと思ったかというと、それがさっきから言っている「距離感」の設定ミスなんですね。近すぎる。面白いつもりかもしれないけどスベっている。
そして、踏むべき段階をとばしすぎている。中也の台詞もそうであるように。

要するに「バカでしかも失礼だな」ってことだ。それが今はすごい怒りを買ったり騒がれたりしてて、そこに驚きがあり違和感があり、オレの連続ツイートの原因もあった。
でもまあ、その差を考えてもしょうがないのかなと思い始めた。

オレより例えば10歳下なら、より「離れてる」から、より「近い」ことへの拒絶が強いことは考えられるよね。
オレの拒絶が「バカでしかも失礼だな」で、彼らの拒絶が「差別だセクハラだ」であると。それは、どっちかが間違ってるとかじゃないんじゃないかなと。

そこで一番最初の「意識が高いほうがいいとは思わないなあ」というツイートにつながる。

なにか見るたびに絶望したり怒るのが、意識が高くて進んでることかもしれないけど、それがしあわせなことだとは少しも思えないんだよな。もっと絶望しろもっと怒れと彼らはいうかもしれない。でもオレは幸福を良しとしたいから、ある程度をこえると考えるのやめちゃう。

やめずに苦しみながら考えて怒ってる人は、えらいと思うけど、ちょっと離れたところから見させてくださいということです。古くて申し訳ないけど今はこれ以上の「自覚」をするつもりがあんまりない。

「不均衡」を「均衡」にする話にも乗れない。あなたがたの「均衡」がオレの「均衡」と同じだとは信じられないから。

いかにも奥行きがなくて、つめたくて、全然魅力を感じない。橋をかける気があるように見えないと、この前は書いたけども。

中身のほかに状況とか言い方もあるんだよね。そこを整えようとする態度が見えないと、話は聞けません。さるかに合戦でいうと、まだ青い柿を木の上から投げつけてくるようなもんだ。

「既成」「構造」「無自覚」「均衡」って、呼びかける言葉じゃないもんな。血がかよってなくて。
血っていうか、「距離感」が、こんどは遠すぎる例だな

そういうわけで、今回は何人かを見えなくすることになった。でも、最終目的地はオレとそう離れてはいないと思うんだよね。いや、わかんないか。

あんなトゲトゲしてたら見てらんないけど、もっとこなれて丸くなったら説得力が変わってくるかもしれないね。

そんなことを二時間半にわたるツイートで書いた。




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mk7911 at 20:10
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